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博多織

鎌倉時代、嘉禎元年(一二三五年)三三歳の満田彌三右衛門は、円爾辯圓(聖一国師)と共に謝太郎國明の船で南宋(中国)明州へ向け博多の津を出港。
宋に六年間滞在し、円爾辯圓は禅の修行、満田彌三右衛門は織物、朱、箔、素麺、麝香丸の五つの製法を修得して、仁治二年(一二四一年)博多の津に帰ります。
博多に戻った彌三右衛門は、これらの製法を博多の人々に伝えましたが、その中の織物技法だけは家伝とし、広東織と称して
独自の技法を加えながら代々伝えていきました。
また彌三右衛門は独自の織紋様を作りたいと考え、円爾辯圓に教えを乞い生まれたのが真言宗の法器、「独鈷」と「華皿」を図案化し、博多織の原点「独鈷と華皿紋様」(後の献上柄)となりました。さらにその約二五〇年後、彌三右衛門の子孫、満田彦三郎が中国・広東へ渡り、織物の技法を研究。帰国後は、竹若藤兵衛と共に改良工夫を加え琥珀織のように地質厚く、浮線紋や柳条もあるという織物を作り出しました。そしてその織物が作られたこの土地、博多の地名をとって、「覇家台織」(はかたおり)すなわち博多織と名付けられたと伝えられています。 

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